多くの生物は,その時その場の太陽エネルギーを“源”に生きてきた.肉食動物の食べる肉も元をたどれば光合成産物である.「生きてきた」と過去形で書いたのは,ヒトは,その時代以外の太陽エネルギーの蓄積を使いはじめたからである.19世紀,太陽エネルギー由来の過去の遺産である化石燃料の炭化水素を大規模に使いはじめた(ただし,石油の由来には異説もある).これにより,夜の明るさが確保され,その後,自動車が一般普及した.昼夜を問わない生活環境と,移動時間の短縮が叶えられた.ところが,これにより生物本来の必要以上に“忙しさ”は増していった.便利にはなっても,なぜか楽にはならない,そんな人間社会の進化が始まった.
さらに20世紀に入り,原子燃料(核燃料)を使う発電を始めた.原子“燃料”を原子“炉”で燃やすのだから,当然,ぼうぼうと炎を上げて燃えているように思わないだろうか.膨大な熱と強烈な放射線を出しながら暴れ狂う火の玉を原子炉格納容器が押さえ込んでいる,そんなイメージを私は持っていた.だが,違う.原子炉で炎は上がらない,なのに恐ろしい量の熱と放射線を発する.火力と異なり原子力は,これがすでにヒトの理解を超えるのではないだろうか.それでも,使用エネルギーとくに使用電力の増加とともに原発が増えてきた.電気作りは発電所という職人村に任せて,送られてくる電気は,火力も水力も違いがないから,気にせず使いましょう.そんな暗黙の了解だったのではないだろうか.「原発批判がほとんどなかった」ことは,反省するしかない.そこを責めてもしょうのないことだ.いますべきことは,将来に目を向けることだ.原子燃料の悪しきこと,その頂点は,ゴミの扱いにある.これは,今の,そして遠い未来への責任問題となる.
核燃料を燃やすと高レベル放射性廃棄物という,どうにもならない毒ゴミができあがる.これをどうするのか?地層処分という要するに地中深く埋めてしまうことで,「なかったことにしましょうね」ということをたくらんでいるらしい(いまのところ,処分地は決まらず).生ゴミならいざ知らず,数万年続く猛毒性を持つものを作っておいて,邪魔だから埋めますでは,未来の人々は納得いかないだろう.これは未来へのツケだ,あまりに大きく重いツケだ.この毒ゴミは“万”の年月で厳重な保管が必要だが,そんな計画,計画とは認められない.実際,原発の高レベル放射性廃棄物処理は「JAEA(日本原子力研究開発機構)によると管理は最初の300年間だけ.千年後にガラス固化体を覆った鉄の容器が腐食して,放射性廃棄物が漏れ出すことを前提にしている(日経ビジネス2012/1/30)」だそうだ.一般ゴミに対しても,再利用や循環の考え方が求められている時代だ,こんな循環を無視した手法に,継続性があるとは思えない.そもそも原子炉自体が30年の運用とその後の廃炉を想定している.たった30年でほぼ永久に使いまわしのきかない土地をあちこちに作って,いったい,これを計画と呼べようか.
この核のゴミの点からも,核を使うことは早急に足を洗うべきだが,核に対する違和感は生物的(あるいは本能的)な違和感だ.ヒトのからだの元素組成は,化石燃料を構成する炭素と水素,そして燃やすのに使われる酸素でからだの90%以上を占める.やはり,ヒトになじみの深い物質を使うべきではないだろうか.石油をはじめとする炭化水素の問題点は,燃焼時の二酸化炭素の発生だ.これはこれで,大きな環境問題であるが,二酸化炭素を再固定することの技術的な問題は解消されつつある(あとは,やるかやらないか,だ).まして,二酸化炭素は,ヒト自身も呼吸で排出し続けている物質だ.核廃棄物の不自然さ,危険性に比較したら,“何とかなる”可能性は高い.
石油大量消費を薦めているのではない.産油性の微生物の実用化,それから,地熱(バイナリ―)発電などで,徹底した循環社会を考えるタイミングではないだろうか.二酸化炭素は油にも再循環できるが,核は埋めるしかない.未来を考えれば,ここで迷う意味がワカラナイ.
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