2012年3月6日火曜日

効率化から最適化へ(朝日新聞・私の視点ボツ作品)

(2011.5.20作成)

一次二次産業の機械化自動化が進むと,人手が要らなくなる.これは,毎日10人がかりで1台の車を作っていたところが,一人で一日に10台生産できるようになる,そんな感じだ.これは,一見すばらしい.設備のための資本は必要だが,日産100台の工場がわずか10人で成り立つわけだ.でもこの車,そんなに売れるのだろうか?買う人がいるのだろうか?つまり,“買える=購入可能”な人がいるのだろうか?

農業に置き換えてみればもう少し分かりやすいだろうか.数十年前までの農業は,一家総出の仕事だった.働ける者全員が,精一杯働いて,平年並みの収穫をできて,何とか食べていける.不作が二年も続けば,食べていけない状況に容易に陥った.それが,機械化と化学肥料のおかげで,夫婦の労働で何とかなるようになり,次第に,お父さん一人でほぼ済むようになり,最近の大規模営農では従来の農家数軒分の耕地を一人で管理する.単純に云ってしまえば,数軒に一人のお父さんだけが働けば,何十人分もの収穫が得られる云うことだ.では,他のお父さんは何をすればいいのか?従来は,こういったお父さんを,建設業や工場が吸収していたのだろう.しかし,それぞれの場でも,同様に効率化が進んで,ヒトは余る一方である.農業でも工業でも,そしてサービス業でも効率化は必要ではある.しかし,効率化がつき進んだ先は,どうなるのだ?必要労働力が減った結果,運が悪いと家族の中に主たる所得者がいない,そういう事態が生じてくるわけだ.作っても売れない,安くしてもなお売れないという,その原因はここら辺にあるのではないか.効率化の結果は,こういうことだ.これが望んだ社会なのか?

ヒト余りが徐々に進行してきた中で,此度の震災により一挙に問題が顕在化したように感じる.「仕事が無い(できない)ことの辛さ」が人間性までも否定さている,そんな気分であるというコメントを見た.いまやるべきことは何か.仮設住宅の建設を急ぐことももちろんだが,お父さんが仕事をし,たとえ少なくても収入を得ること,つまり,仕事を増やすことではないだろうか.でもどうやって?

その解のひとつをビル・テットン氏が述べている.「人手のかかる有機栽培農業に取り組めばいい(日経ビジネス5.16号)」と.これだ!人手を多くかけても,高い付加価値さえ付けられれば全体の収入が上がる.これまでの効率化の流れとは逆向きになるが,目指すところは「最適化」だ.これは法人としての最適化ではない,それでは利益追求になってしまう.ヒトとしての最適化だ.必要な機械は使っても,手をかけることで薬剤の使用を減らし,安心安全な農作物を作る.

効率をベンチマークしてきた社会は,震災を機に変われるかもしれない.しかし,これは突然の変化ではない.その前触れは,2000年以降いろいろな形で生じてきていたのではないだろうか.ロハスなどに代表されるライフスタイルの変化,あるいは安月給をいとわず志を持ってNPOに就職する若者の増加などだ.そして,震災があった.効率化の社会であれば,これだけ多く寄付が集まり,多くのボランティアが駆けつけることはありえない.自分や家族友人を,そして日本を「最適化」したいと,心から願ったゆえの変化の始まりではないだろうか.国民は動き出した,国家よ動け.

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