2012年3月26日月曜日

水槽のケンミジンコ





日なたに一年中放置してある30センチ水槽.
冬の間にギギ(?)が死んで,脊椎動物は全滅.
いまは,甲殻類天国になっている.
 
暖かくなり,水温が上がってきて,泳ぎが活発になったミジンコが何やらぶら下げている.
もしや,と思い,ペンタックスのWG-1で,撮影(顕微鏡モード).

あら,けっこうきれいに映るじゃない.
卵もちゃんとわかるし.

こーゆーコトしていると,家を出てくる時間がどんどん遅くなる...

2012年3月19日月曜日

核を使うコトの生物的違和感


多くの生物は,その時その場の太陽エネルギーを“源”に生きてきた.肉食動物の食べる肉も元をたどれば光合成産物である.「生きてきた」と過去形で書いたのは,ヒトは,その時代以外の太陽エネルギーの蓄積を使いはじめたからである.19世紀,太陽エネルギー由来の過去の遺産である化石燃料の炭化水素を大規模に使いはじめた(ただし,石油の由来には異説もある).これにより,夜の明るさが確保され,その後,自動車が一般普及した.昼夜を問わない生活環境と,移動時間の短縮が叶えられた.ところが,これにより生物本来の必要以上に“忙しさ”は増していった.便利にはなっても,なぜか楽にはならない,そんな人間社会の進化が始まった.

さらに20世紀に入り,原子燃料(核燃料)を使う発電を始めた.原子“燃料”を原子“炉”で燃やすのだから,当然,ぼうぼうと炎を上げて燃えているように思わないだろうか.膨大な熱と強烈な放射線を出しながら暴れ狂う火の玉を原子炉格納容器が押さえ込んでいる,そんなイメージを私は持っていた.だが,違う.原子炉で炎は上がらない,なのに恐ろしい量の熱と放射線を発する.火力と異なり原子力は,これがすでにヒトの理解を超えるのではないだろうか.それでも,使用エネルギーとくに使用電力の増加とともに原発が増えてきた.電気作りは発電所という職人村に任せて,送られてくる電気は,火力も水力も違いがないから,気にせず使いましょう.そんな暗黙の了解だったのではないだろうか.「原発批判がほとんどなかった」ことは,反省するしかない.そこを責めてもしょうのないことだ.いますべきことは,将来に目を向けることだ.原子燃料の悪しきこと,その頂点は,ゴミの扱いにある.これは,今の,そして遠い未来への責任問題となる.

核燃料を燃やすと高レベル放射性廃棄物という,どうにもならない毒ゴミができあがる.これをどうするのか?地層処分という要するに地中深く埋めてしまうことで,「なかったことにしましょうね」ということをたくらんでいるらしい(いまのところ,処分地は決まらず).生ゴミならいざ知らず,数万年続く猛毒性を持つものを作っておいて,邪魔だから埋めますでは,未来の人々は納得いかないだろう.これは未来へのツケだ,あまりに大きく重いツケだ.この毒ゴミは“万”の年月で厳重な保管が必要だが,そんな計画,計画とは認められない.実際,原発の高レベル放射性廃棄物処理は「JAEA(日本原子力研究開発機構)によると管理は最初の300年間だけ.千年後にガラス固化体を覆った鉄の容器が腐食して,放射性廃棄物が漏れ出すことを前提にしている(日経ビジネス2012/1/30)」だそうだ.一般ゴミに対しても,再利用や循環の考え方が求められている時代だ,こんな循環を無視した手法に,継続性があるとは思えない.そもそも原子炉自体が30年の運用とその後の廃炉を想定している.たった30年でほぼ永久に使いまわしのきかない土地をあちこちに作って,いったい,これを計画と呼べようか.

この核のゴミの点からも,核を使うことは早急に足を洗うべきだが,核に対する違和感は生物的(あるいは本能的)な違和感だ.ヒトのからだの元素組成は,化石燃料を構成する炭素と水素,そして燃やすのに使われる酸素でからだの90%以上を占める.やはり,ヒトになじみの深い物質を使うべきではないだろうか.石油をはじめとする炭化水素の問題点は,燃焼時の二酸化炭素の発生だ.これはこれで,大きな環境問題であるが,二酸化炭素を再固定することの技術的な問題は解消されつつある(あとは,やるかやらないか,だ).まして,二酸化炭素は,ヒト自身も呼吸で排出し続けている物質だ.核廃棄物の不自然さ,危険性に比較したら,“何とかなる”可能性は高い.

石油大量消費を薦めているのではない.産油性の微生物の実用化,それから,地熱(バイナリ―)発電などで,徹底した循環社会を考えるタイミングではないだろうか.二酸化炭素は油にも再循環できるが,核は埋めるしかない.未来を考えれば,ここで迷う意味がワカラナイ.

2012年3月14日水曜日

大宮操車場の河津桜

今年は寒い.
3月半ばになっても,河津桜さえ,この程度.


「大宮操の桜」の看板,いつ着けたのだろう?

20年前,1992の春から,
湘南新宿ラインになる前の,「高崎線の池袋行き」を使っています.
(途中数年のブランク有) 20年も経っちゃったんだなぁ.


もっと,も~っと前,
子どもの頃,赤羽行きがありました.
赤羽行きで赤羽で降りて,赤羽線に乗り換える垂直移動が,
子ども心にたまりませんでした.

ぜんぜん,桜と関係ないな...

2012年3月9日金曜日

まさに啓蟄

3/7,ウチの池にカエルが出てきました.
春です.
コバエもブンブン飛んでいます.
腹ペコガエルの捕食シーンを待っていましたが,根負け.



左下で,大きな葉っぱがユサユサしている下に,
2匹目がいます.

今日は寒いので,心配.
でも,池にはいなかったので,どこかで埋まっているのでしょう.

2012年3月6日火曜日

効率化から最適化へ(朝日新聞・私の視点ボツ作品)

(2011.5.20作成)

一次二次産業の機械化自動化が進むと,人手が要らなくなる.これは,毎日10人がかりで1台の車を作っていたところが,一人で一日に10台生産できるようになる,そんな感じだ.これは,一見すばらしい.設備のための資本は必要だが,日産100台の工場がわずか10人で成り立つわけだ.でもこの車,そんなに売れるのだろうか?買う人がいるのだろうか?つまり,“買える=購入可能”な人がいるのだろうか?

農業に置き換えてみればもう少し分かりやすいだろうか.数十年前までの農業は,一家総出の仕事だった.働ける者全員が,精一杯働いて,平年並みの収穫をできて,何とか食べていける.不作が二年も続けば,食べていけない状況に容易に陥った.それが,機械化と化学肥料のおかげで,夫婦の労働で何とかなるようになり,次第に,お父さん一人でほぼ済むようになり,最近の大規模営農では従来の農家数軒分の耕地を一人で管理する.単純に云ってしまえば,数軒に一人のお父さんだけが働けば,何十人分もの収穫が得られる云うことだ.では,他のお父さんは何をすればいいのか?従来は,こういったお父さんを,建設業や工場が吸収していたのだろう.しかし,それぞれの場でも,同様に効率化が進んで,ヒトは余る一方である.農業でも工業でも,そしてサービス業でも効率化は必要ではある.しかし,効率化がつき進んだ先は,どうなるのだ?必要労働力が減った結果,運が悪いと家族の中に主たる所得者がいない,そういう事態が生じてくるわけだ.作っても売れない,安くしてもなお売れないという,その原因はここら辺にあるのではないか.効率化の結果は,こういうことだ.これが望んだ社会なのか?

ヒト余りが徐々に進行してきた中で,此度の震災により一挙に問題が顕在化したように感じる.「仕事が無い(できない)ことの辛さ」が人間性までも否定さている,そんな気分であるというコメントを見た.いまやるべきことは何か.仮設住宅の建設を急ぐことももちろんだが,お父さんが仕事をし,たとえ少なくても収入を得ること,つまり,仕事を増やすことではないだろうか.でもどうやって?

その解のひとつをビル・テットン氏が述べている.「人手のかかる有機栽培農業に取り組めばいい(日経ビジネス5.16号)」と.これだ!人手を多くかけても,高い付加価値さえ付けられれば全体の収入が上がる.これまでの効率化の流れとは逆向きになるが,目指すところは「最適化」だ.これは法人としての最適化ではない,それでは利益追求になってしまう.ヒトとしての最適化だ.必要な機械は使っても,手をかけることで薬剤の使用を減らし,安心安全な農作物を作る.

効率をベンチマークしてきた社会は,震災を機に変われるかもしれない.しかし,これは突然の変化ではない.その前触れは,2000年以降いろいろな形で生じてきていたのではないだろうか.ロハスなどに代表されるライフスタイルの変化,あるいは安月給をいとわず志を持ってNPOに就職する若者の増加などだ.そして,震災があった.効率化の社会であれば,これだけ多く寄付が集まり,多くのボランティアが駆けつけることはありえない.自分や家族友人を,そして日本を「最適化」したいと,心から願ったゆえの変化の始まりではないだろうか.国民は動き出した,国家よ動け.